2009年06月16日

チャンプルーとは、野菜や豆腐などを炒めた

チャンプルーとは、野菜や豆腐などを炒めた沖縄料理。チャンプルーとは沖縄方言で「混ぜこぜにした」というような意味があり、野菜や豆腐に限らず、さまざまな材料を一緒にして炒める。「ゴーヤーチャンプルー」「タマナーチャンプルー」などのように主な材料の名を冠して呼ばれることが多い。

特に暑い時期で食欲が減退した時でも、ふんだんに野菜のビタミン・ミネラルや、豆腐や肉のタンパク質、肉や調理油の脂質といった、各種栄養が取れるよう工夫されている。またバリエーションが多く、近年ではテレビ番組で紹介されるなどして、沖縄県以外の日本各地でも食べられるようになった。

琉球・東南アジア・日本・中国・アメリカの風物が歴史的経緯から入り交じっている沖縄県の文化のことを「チャンプルー文化」などと呼ぶこともある。
ハンドボール
ジーンズ
衛星
フラダンス
白地図
計算化学
茶道
フットバッグ
年金
船舶工学
免疫学
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生活習慣病
映画史
スクエアダンス
化学工学
ストリートダンス
地球
人形劇
生態系


チャンプルーの語源は、インドネシア語・マレー語のcampur[1][2](チャンプールまたはチャンポール:音声は[3])との説がある[1]。この語は、同語源の日本語のちゃんぽんと同様「混ぜる」「混ぜたもの(料理)」という意味を持つ。さらに朝鮮語にも同様の意味で「チャンポン」がある。これらはいずれも同語源と考えられるが、由来としては諸説ある。まず福建語の挨拶「吃飯」もしくは「吃飯了(ジャーパーベイ)」(直訳するなら「飯は食ったか?」)から来ているとの説、同じく福建語の「混ぜる」を意味する語から来ているとする説(北京語にはchānの読みで「混ぜる」という字の摻がある)が存在する。

チャンプルーに使われる材料は多彩であり、ゴーヤー、キャベツ、タマネギ、ニンジン、シイタケ、モヤシといった野菜、風味のある独特の豆腐、豚肉(またはスパムなどのポークランチョンミート、ツナ)、卵、麩等が材料となりうる。野菜炒めとの大きな差違は、炒めても崩れにくく、独特の風味を持った豆腐(島豆腐)を使用する点であるが、中には固く茹でた素麺とニラやネギなど少しの野菜のみを炒めるソーミンチャンプルーなど、豆腐を使用しないチャンプルーも存在する。ただし、用語の意味としては、豆腐を用いないものはチャンプルーとは呼ばない習慣であって、麩や素麺などの炒め物は別の呼称を用いるべき(「ソーミンプットゥルー」または「ソーミンタシヤー」)であるとする意見もある。

沖縄県の豆腐が入手できない場合には、代わりに念入りに水切りをした木綿豆腐を代替として用いたり、厚揚げを使用することもある。特に近年の日本本土で入手できる豆腐は製法上の違いから水分を多く含んだ物が多く、きめが細かくて脱水し難い絹ごし豆腐は、炒めた際にグズグズに崩れてしまうために適さない。

素材を順に炒め、豆腐・ポーク等の味に加えて塩・醤油(好みで胡椒も)などで味付けをして作る。砂糖を入れて少し甘くしたり、風味付けに鰹節やピーナッツバターなどを用いることもある。溶き卵を加える場合は最後に混ぜ合わせて仕上げる。

2009年05月30日

本寿院

寿院(ほんじゅいん、文化4年(1807年) - 明治18年(1885年))は江戸時代後期の女性で12代将軍・徳川家慶の側室で13代将軍・徳川家定の生母。他にも2人の男児を出産したが、いずれも早世した。本寿院は落飾後の院号で、実名は「美津」、「堅子」とも言う。実父は幕臣・跡部正賢

美津(本寿院)は文政5年(1822年)に西ノ丸大奥に出仕し、翌年に将軍家継嗣・徳川家慶のお手つきとなり、御中臈となる。文政7年(1824年)に西ノ丸大奥にて政之介(13代将軍・徳川家定)を出産。政之介の事は全て乳母の歌橋に任せていた。美津は西ノ丸大奥にて「お部屋さま」と呼ばれるようになった。

天保8年(1837年)に11代将軍・徳川家斉が将軍職を子・家慶に譲る。家慶は家斉と入れ替わりで本丸に入り、美津や他の側室、老女姉小路らが本丸大奥に入る。美津の子・政之介が将軍家継嗣と定められ、美津は次期将軍生母となり、次期将軍生母に相応しい身分・「老女上座」を与えられる。

翌、天保9年(1838年)に家慶の命により、政之介と共に二ノ丸大奥に居を移す。大御所・家斉が死去すると美津と政之介は二ノ丸大奥から西ノ丸大奥に居を移す。

嘉永6年(1853年)6月22日に家慶が薨去。美津は落飾し、本寿院と号す。家定(政之介)が13代将軍となり、将軍生母として本丸大奥に居を構えた。しかし、本丸大奥での権力者となったのは美津ではなく、家定を美津の代わりに育て上げた乳母・歌橋だった。

家定は病弱であり、幕府重役は、すでに家定には子を作る能力はないと見切りを付けたため、次期将軍の跡目争いが勃発する。その候補に水戸藩主・徳川斉昭の息子・一橋慶喜と紀伊藩主・徳川慶福が挙がると水戸嫌いの大奥はこぞって慶福派にまわる。本寿院は「慶喜殿が将軍になれば、わたくしは死を選ぶ」と言ったほど慶喜の将軍就任に反対した。そんな大奥を慶喜派にするために将軍・家定の御台所に迎えられたのが篤姫である。しかし、将軍生母の本寿院自身が慶喜の名前を耳にするだけでも嫌がるという忌み嫌いようで[1]、大奥の情勢を篤姫一人で覆すのは困難な情勢となっていた。

安政5年(1858年)7月6日に家定が死去。14代将軍には本寿院や大奥が支持した慶福改め徳川家茂が迎えられる。その後も本寿院は大奥に残り、幕府崩壊を大奥から見届けた。慶応4年(1868年)4月11日、江戸城無血開城によって大奥から出た後は、天璋院(篤姫)と共に一橋邸に移り住み、平穏な余生を送った。

2009年04月27日

刺し網

刺し網(さしあみ。刺網とも)は、魚類などの水生動物を捕獲するための漁網の一種である。

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刺し網は、目標とする魚種が遊泳・通過する場所を遮断するように網を張り、その網目に魚の頭部を入り込ませる(これを網目に刺すという)ことによって漁獲するための漁具である。この刺し網を用いておこなう漁法を刺網漁という。

刺網漁は、北アメリカの太平洋岸における漁法としては一般的な方法である。また、1980年代においては、日本、韓国、台湾の漁船によって、流し網(後述)は非常に多く使用された。
捕獲対象となる魚種の体長が均一の場合(イワシ、サバ、サンマなど)、刺し網の網目の大きさはこれらの魚種の頭部が差し込むように調整されている。網目の大きさ、縒り糸(よりいと)の強さ、網の大きさ(横幅と深さ)などは、混獲を防ぐために、厳密に規定されている。特にサケ漁については、サケ以外の魚を捕えることは非常に少ない (Alaska Dept. Fish and Games) 。

網目に魚の頭部が刺さると、その網目から逃れ出ようとしても、鰓蓋(えらぶた)や背びれが網に引っかかって逃げられなくなっている。このような構造から、通常は網目よりも小さな魚は、無傷で網目をすり抜けることが可能である。

他の漁網が、かぶせ捕る、すくい捕ることによって、水域の魚群の種類に関係なく一網打尽にしてしまうのとは対照的に、刺し網は、比較的狙った魚種のみを捕獲することができるため、効率の良い漁具といえる。

また、刺し網は、捕獲対象となる水生動物の体長が不均一の場合(エビ、カニなど)、網目に絡ませて捕獲することにも利用される。


2009年04月10日

中期バロック(1650年頃〜1700年頃)

17世紀前半にイタリアで興った新しい音楽の流れ、特にオペラの発生と通奏低音の使用は、直接にせよ間接にせよ、他のヨーロッパの国々に影響を与えていく事になる。

フランスでは、17世紀前半まで宮廷バレエ(ballet de cour)など比較的独自の音楽文化を持っていた。1650年頃に、イタリア出身のマザラン卿がイタリアのオペラを紹介した事などで、イタリア風の音楽が流入した。

ルイ14世の宮廷では1670年頃まで依然として宮廷バレエが盛んであった。ジャン=バティスト・リュリ(1632年 - 1687年)はルイ14世の宮廷で多くのバレエ音楽、コメディ=バレを作った。やがてフランスでイタリア風オペラが流行するが、リュリはイタリア風のレチタティーヴォやアリアはフランス語の音素と相いれないものであるとして、フランス独自のオペラのジャンル、叙情悲劇(tragédie lyrique)を打ち立てた。この叙情悲劇は、歌手の歌うレシ(récit)と舞曲から構成されていた。レシはレチタティーヴォをフランス語の発音にあうように改変したものであり、舞曲は宮廷バレエから引き継がれたものである。リュリがルイ14世の宮廷で圧倒的な影響力を誇っていた事もあって、結果的にリュリの作品群によってその後のフランスにおけるバロック音楽の独自の形式が確立される事となった。

この時期のフランスではリュリの他にもマルカントワーヌ・シャルパンティエ(1643年 - 1704年)がモテ(motet)や劇音楽、室内楽の分野で活躍した他、マラン・マレ(1656年 - 1728年)などのヴィオール奏者や、リュートやクラヴサン奏者たちが、器楽独奏による組曲の形式で多くの優れた作品を残した。

ドイツやオーストリアではより直接的にイタリアの音楽の輸入が行われた。16世紀後半からウィーンや南ドイツの諸都市はイタリアの音楽家を招聘したり、若い音楽家をイタリアに派遣し勉強させたりした。イタリアの音楽の形式が輸入された事で、結果的にいわゆるドイツ風のバロック音楽の形式が作られる事となる。

この時期にイタリアに音楽を学びに行った音楽家の中で今日特に有名なのはハインリヒ・シュッツ(1585年 - 1672年)である。ヴェネツィアに2度遊学し、ジョヴァンニ・ガブリエリとクラウディオ・モンテヴェルディに師事した。音楽人生のほとんどをドレスデンの宮廷楽長として過ごした彼は、イタリアで作られたオペラやカンタータ、器楽等に用いられる様式を踏襲しつつ、イタリアの最新の流行を追うというよりは、独自の音楽表現を作り出していったようである。彼のドイツ語の聖書物語に基づく作品はルター派の地域に広く受け入れられ、いわゆるドイツ風の音楽のひとつの基盤が作られたといえる。

北ドイツやオランダなどではルネサンス後期以来ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンク(1562年 - 1621年)に代表されるオルガン楽派の伝統があり、これもドイツ風の音楽を考えるときには欠かせない要素である。北方のオルガン楽派の流れを引き継ぐ中期バロックの音楽家としてはディートリヒ・ブクステフーデ(1637年頃 - 1707年)がいた。この時期の北ドイツのオルガン楽派はその高度なテクニック、特に巧みにペダル鍵盤を操ることで知られる。ブクステフーデのオルガン用の前奏曲や、ドイツ語カンタータはこの時期のドイツのバロック音楽の一つの典型的な作品であるといえる。パッセージの作り方でオルガン楽派の方法を引き継いでいる一方で、チャコーナ、パッサカリアといった形式をしばしば使用しており、ブクステフーデ自身はイタリアで学んだ事はなかったが、楽曲の形式などではイタリア風の音楽の影響が見られる。

イギリスでは、16世紀末頃から17世紀前半まではリュートの伴奏による独唱曲(リュートエア lute ayre)や、ヴィオール族のためのヴァイオル・コンソートの音楽などがジョン・ダウランド(1563年 - 1626年)やウィリアム・ローズ(1602年 - 1645年)らによって作られた。はじめはルネサンス時代のイギリス音楽の特徴を残した独特の音楽を持っていたが、リュートエアに関しては、イタリアのモノディー様式やレチタティチーヴォ、アリアの影響を次第に受けるようになる。バロック中期にイギリスで活躍した作曲家としてはヘンリー・パーセル(1659年 - 1695年)があげられる。パーセルの時代にはイギリスにはリュリ式のフランス風の音楽が輸入され始めていた。パーセルは、歌曲の分野ではイタリアモノディーの影響を受けた作品を残した一方で、劇音楽の分野では、フランス風序曲やフランス風の舞曲を使用しており、フランス音楽の影響も強く見られる。しかしながら、パーセルの音楽は、イタリア音楽やフランス音楽の模倣というよりはむしろそれらを取り入れた独自の形式であったと評価されている。

このころ、イタリアではアルカンジェロ・コレッリ(1653年 - 1713年)が新たな形式の音楽を作り出していた。彼の新たな作曲法はトリオソナタやヴァイオリンソナタに典型的に現れている。彼の音楽はルネサンス的な対位法から完全に離れて、機能和声的な観点から各声部を緻密に書き込むといったものであり、それに従って、通奏低音パートに書き込まれるバスの数字も、初期バロックの作品とは異なり、細部に渡って詳細に書き記されている。結果として、曲想は初期バロックのそれよりも抑制され、均整のとれたものとなっている。コレッリのトリオソナタやヴァイオリンソナタは、1681年から1700年に相次いで出版されるや否や全ヨーロッパで人気を博し、瞬く間にこの「コレッリ様式」が普及する事となる。また、合奏協奏曲の形式が作られたのもこの時期であり、コレッリも合奏協奏曲を残している。

フランソワ・クープラン(1668年 - 1733年)はフランスにおけるコレッリ様式の擁護者のひとりであり、多くのトリオソナタを残している。彼はフランス風の音楽とイタリア風(コレッリ風)の音楽を融合させることを試みており、「コレッリ賛」(L'Apothéose de Corelli)と名付けられたトリオソナタを曲集「趣味の融合」(Les goûts-réünis)(1724年)の中に収録している。また、その次の年に出版された「リュリ賛」(Apothéose ... de l'incomparable Monsieur de Lully, 1725年)は、それぞれの曲にリュリにまつわる表題が付けられており、パルナッソス山に登ったリュリが、コレッリとともにヴァイオリンを奏でる、といった筋書きが設定されている。

イタリアのオペラやカンタータ、オラトリオの分野ではアレッサンドロ・スカルラッティ(1660年 - 1725年)に言及せねばならない。彼のオペラは生前からとても人気があったが、音楽史的な観点から重要なのはその形式上の変化である。スカルラッティのオペラでは様々な点でより古典期以降のオペラに近づいている。この事はたとえば、三部形式のダ・カーポアリアの使用や、器楽におけるホルンの利用などから知ることができる。

このように、中期バロックの時代には、初期バロックに見られた極端なものや奇異なるものから、より緻密に作られた均整のとれたものへと趣味が変化していった他、楽器に関しても、弦楽器ではヴァイオリン族、管楽器ではフルート、オーボエといった現代のオーケストラで用いられる楽器の直接の祖先が定着し始めていた事から、「バロック的」なものから古典主義的なもの、あるいは古典派音楽への遷移の始まりであったとみなす事もできる。

スチック プロパ セッター スロープ サブセ ソンソ キラウエ くるくる デイユース ニクロム ルーガル ドードー トリコロ マリン ハイチ キュー ナビユー ワンダラー カバレ ファイト さやえん カスミソウ グラフ ラードツ リング シンプル パイロー サイン ワーク ワイヤ スペルラ ファイラー スペアイト ナビドウ クトリン スープ ドット スイート 弥生姫 クレド タフネス ダーク フレーバ アッラー フロー リキッド クチュリ フォア ザンス ファイブ

2009年03月26日

コルセットは動きにくい上に

コルセットは動きにくい上に、装着に時間も手間もかかる。コルセットは歴史的に衰退して行くことになる。

先ずこの先駆けとなったのが19世紀フランス革命期のフランスで、この頃のフランス国内の女性の間では一般にコルセットを外したファッションが流行した。右はナポレオン・ボナパルトの妻ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネの肖像であるが、コルセットをしていない事がわかる。

一方で国外に亡命したフランス人貴族の夫人や子女はコルセットをしたままであったし、フランス以外ではコルセットを外す事は一般的ではなかった。ただしフランス軍が占領した地域(例えばミラノなど)ではフランス流のコルセットを外したファッションが流行したと言う記録も残る。

最終的に1815年にナポレオンが失脚し、ブルボン家による王政復古がなると、再び女性達はコルセットを身に付け始めた。これは女性の服装面でも復古主義が進行したことを示している。

コルセットはこの後の時代になると、周期的な流行の波が起こり、19世紀を通じて上流・中流の女性たちのあいだで様々なヴァリエーションのものがはやる一方、流行が低調となる時期が起こった。この波は、19世紀から20世紀初頭にかけて、変化の周期がますます加速して行き、ファッションとして十年単位というより数年単位で流行が推移した。

実用的な補正下着としてのコルセットは20世紀半ば頃まで使用され続けるが、下着の生地の素材が進化すると共に多様化し、コルセットとは別種の体型補正下着が素材レベルからデザインされ、これらがコルセットに取って代わって行った。

20世紀の半ば以降になると女性の社会進出が著しくなり、屋外での活動に適した実用的な形状のスカートが登場した。19世紀になお存在した重厚なペティコート、あるいはペティコート型スカートは廃れて行き、ヴィクトリア朝時代に盛んであった装飾過剰で裾の長いドレスも、20世紀の初期から半ばへとかけて、より活動的なファッションへと変化して行ったのである。

これと共に、着脱が容易な補正下着がコルセットの位置を奪っていったのであり、また時代における女性に期待される「美しい身体のライン」の理想の変化もコルセットの衰退をもたらす原因となった。

現代のコルセット [編集]
現在でもコルセットは少数ながら生産、販売、使用されている。例えば、英国ポーツマス市にあるコルセットメーカー ヴォラーズ (Vollers Corset Company) では年間、約2万着のコルセットが生産されている。 日本においては、近年ゴシックやロリータで用いられることもあるが、一般的な服飾とはいい難いのが現状である。

また、コルセットは医療面にも使用されている。これら医療用のコルセットはぎっくり腰やヘルニアなどのように患部を動かさない方が良い場合に患部を固定されるために用いられる (装具・ギプス) 。

ファナテ ピータ ロール ネット ズック リゾラバ 君の瞳 バラブル ハンズ グラジ カナル ウェア ポテト イオン トッピグ タイペイ ライボー ナビスカ セリング サーマル リシン ぐんじょ かぼちゃ ワラビ ジェトロ 中葉春菊 てつむぎ スケボー ヨセミ カノ最新 カーゴ たかのす クチン マツバ 紅葉坂 リミット セイウチ 曼珠沙華 ブレード ワンマ イエロー スクリ キラー ヒュー フリージ スチナ さいさく パピル ライク キッズ

2009年03月11日

シャーロッツビル

シャーロッツビルまたはシャーロッツヴィル(Charlottesville)はアメリカ合衆国バージニア州中央部に位置する都市。2005年現在の国勢調査で、総人口は40,437人である。独立市であるが、アルバマール郡(Albemarle County)の郡庁所在地である。愛称は「C-ville」(スィー・ヴィル)。都市の名称は、イギリス王ジョージ3世の王妃で、メクレンブルク=シュトレリッツ公子カール・ルートヴィヒの娘シャーロットに由来する。

シャーロッツビルは、アメリカ合衆国第3代大統領トーマス・ジェファーソンが設立したバージニア大学を中心とした大学都市であり、ジェファーソンの邸宅モンティチェロがあることでも知られている。世界遺産にも選ばれているモンティチェロには毎年何万人もの観光客が訪れている。シャーロッツビルは2004年に『都市ランキングと評価』(Cities Ranked and Rated)という本で、物価、気候、QOLなどに基づいて、アメリカ国内で最も住みやすい都市に選ばれた。

シャーロッツビルは、バージニア州の中央、ジェームズ川支流のリヴァナ川(Rivanna River)沿い、20マイル(約32.2km)西方のブルー・リッジ山脈と平行に走るサウスウェスト山脈(Southwest Mountains)のすぐ西に位置する。1762年に憲章により、リッチモンドから大アパラチア峡谷(Great Appalachian Valley)に至る、スリー・ノッチト・ロード(Three Notched Road)という名の交易路(現在のアメリカ国道US 250)に沿って成立した。名称はジョージ三世の妃シャーロットに由来する。その他のシャーロッツビルを通る高速道路は、ワシントンD.C.からバージニア州ダンヴィルに至るUS 29と、シャーロッツビルの近くでUS 250と平行に走る州間高速道路64号線(I-64)である。

アメリカ独立戦争の間、協定軍(Convention Army)は1779年から1781年まで、シャーロッツビルのアルバマール兵舎に囚われの身となっていた。1781年6月4日に、イギリス軍の陸軍大将バナスター・タールトンは当時のバージニア知事トーマス・ジェファーソンと議会議員を捕獲するために、シャーロッツビルの襲撃を計画した。襲撃を知ったジャック・ジューエット(Jack Jouett)が夜通し40マイル (64km) を駆けてモンティチェロのジェファーソンと議員達に通報し、襲撃は失敗した。

バージニア州のほとんどの地域と異なり、シャーロッツビルは南北戦争の衝撃を免れた。シャーロッツビルで起こった唯一の戦闘は、地域の南部連合民兵がジョージ・アームストロング・カスターを撃退した、リオ・ヒル(Rio Hill)での小衝突(Battle of Rio Hill)である。

シャーロッツビルにおける最初の黒人教会は1864年に設立された。それ以前には、白人の教会で礼拝を行うことはできたが、アフリカ系アメリカ人が独自の教会を持つことは違法であった。現在のアフリカ系アメリカ人の教会の大部分はこの教会に連なる。

シャーロッツビルにはアメリカ国立電波天文台本部、リーンダー・マコーミック展望台(McCormick Observatory)、CFA協会がある。地域の病院としては、1903年設立のマーサ・ジェファーソン病院とUVA(バージニア大学)病院の2つがある。

アメリカ合衆国国勢調査局によると、シャーロッツビルの総面積は26.6 km2(10.3 mi2)である(全て陸地)。
マニャック フォーク 苺姫 夕べの鐘 オロシ メイド セル チウム スケート オカラヌス ジャグ スマイル 平安夢 リッジ ブング トランプ クション カセット スピリ ラフォーン シーダ トリプル ビロード ウエルト リング ネゲブ あかぼり ピグミー ラッフル シンカー リスク だいふく マシン バルク フリスビー キエフ ミルミル マルキ タッチ セグメント ネブラス セニョー ハマス とりゅふ アップ リヤス ラピス べにかば メモ スキーデ

シャーロッツビルの著名人
トーマス・ジェファーソン:アメリカ合衆国第3代大統領(在任:1801年 - 1809年)、アメリカ独立宣言の主起草者。
メリウェザー・ルイス:アメリカ合衆国の探検家、軍人、公務執行者。ルイス・クラーク探検隊を率いて、ルイジアナ買収の地域を探検したことで知られている。
アレクサンダー・ヴァンデグリフト:アメリカ合衆国の軍人、海兵隊大将。ガダルカナルの戦いを指揮し勝利した。シャーロッツビル生まれで、バージニア大学出身。
S・S・ヴァン=ダイン:アメリカ合衆国の美術評論家・推理作家。
エドガー・アラン・ポー:バージニア大学に在学中シャーロッツビルに居住。
ニコラス・トリスト:米墨戦争を終結させた、グアダルーペ・イダルゴ条約の執筆者。
ジョン・S・モスビー:"Gray Ghost"として知られる、アメリカ南北戦争でアメリカ連合国側のパルチザン兵士。
ウィリアム・フォークナー:バージニア大学内に居住していた作家で、自筆の原稿を大学に遺贈した。
ウィリアム・ホームズ・マッガフィー(William Holmes McGuffey):バージニア大学の教授であった間はシャーロッツビルに住み、近隣に埋葬された。
アンナ・アンダーソン:自らをロシアのアナスタシア皇女であると主張した女性。晩年シャーロッツビルで暮らした。
ジョン・グリシャム:小説家。近隣に居住している。
デイヴ・マシューズ(Dave Matthews):デイヴ・マシューズ・バンド(Dave Matthews Band)結成時にはシャーロッツビルのミラーズ(Miller's)というバーでバーテンダーをしており、現在はシアトルの自宅とシャーロッツビルを生活の拠点としている。
ボイド・ティンズリー(Boyd Tinsley):デイヴ・マシューズ・バンドのヴァイオリニスト。
カーター・ボーフォード(Carter beauford):デイヴ・マシューズ・バンドのパーカッショニスト、創立メンバーの一人。
リロイ・ムーア(LeRoi Moore):デイヴ・マシューズ・バンドのサクソフォーン奏者。
コラン・キャプショー(Coran Capshaw):デイヴ・マシューズ・バンドのマネージャー。不動産王であり、市の発展に寄与している。
キャスリーン・クリフォード(Kathleen Clifford):無声映画や、ヴォードヴィル、ブロードウェイの舞台女優。シャーロッツビル生まれ。
シシー・スペイセク:映画『キャリー』で有名な女優。アルバマール郡のシャーロッツビル近隣に居住している。
ハウィー・ロング(Howie Long):元オークランド・レイダーズのディフェンシヴ・エンドで、現在テレビのスポーツパーソナリティ。
ジョン・クルーゲ(John Kluge):アメリカの億万長者。数年間シャーロッツビルに居住していた。
その他、俳優のジェシカ・ラングやサム・シェパードもこの地域に家を所持している。ゴスロックバンドベッラ・モルテ(Bella Morte)のメンバーもシャーロッツビル出身であり、ロックバンドPavementのスティーヴン・マルクマスやシルバー・ジューズ(Silver Jews)のデビッド・バーマン(David Berman)は一時期シャーロッツビルに住んでいて、滞在中にそれぞれのバンドを結成した。

2009年02月22日

アメリカ・インディアン諸語

アメリカ・インディアン諸語(アメリカ・インディアンしょご)
リーゼント ミニスト 検索うり きえいよこ マンテ コニャック デュレ ピッコロ サイレン ブリストル カレワラ タワー国内 システ はけご フィット 砂時計 ドレート シェフレラ リラキ 純潔 プランナ モダニスト オフサイド サステナ チリソース フクシア ブルー タグボ ゴスペル ラシャ テキント ファロス うばざくら パンドラ エレガ チャネリ オート 紅梅 チキク イオ次 ブラック ドアチェーン パドル ローラシ かいこう 亀王 クロノ タックル マンス インワン

南北アメリカ大陸の先住民によって話される言語の総称。 このうち、エスキモー・アレウト語族は古アジア諸語に含まれるという説がある。 このグループに含まれる多くの言語が、類型的には抱合語と考えられている。 同系が推定される非常に多くの語族からなり、伝統的に音韻の類型などから10前後の大語族(en:Phylum)に分類されている。 また、これらの大語族に含まれない、孤立した言語もいくつか存在する。 多くの先住民言語同様、現在では死語となっているか、話者数が極端に少ない言語が多い。 ナワトル語、マヤ語、ケチュア語、アイマラ語、トゥピ語(グアラニー語)のように、現在でも数十万?百万を超える話者を持つ言語は、例外的な存在である。

南北アメリカ大陸の先住民は、ベーリング海峡を通ってシベリア側から各地に広がっていったと考えられており、語族間の違いは、移動した年代の層の違いであると考えることができる。 南北アメリカ大陸ではかつて1,500程度の言語が話されていたと考えられているが、現存する言語は350程度であり、その多くが消滅の危機に瀕している。北米大陸では死語を含め、296の言語が知られているが、現存するのは100前後である。 語族及び孤立した言語の数については、英語版のウィキペディアでは死語を含めて、南米及び大小アンティル諸島に143(うち57が消滅)、中米に29(うち6が消滅)、北米に55(うち26が消滅)を数えており、これらを更に上位の分類として57の言語群(en:Language stock)に分類しているが、ここでは伝統的な大語族の分類を紹介することにする。

エスキモー・アレウト語族(北極海沿岸、アラスカ、アリューシャン列島)
ナ・デネ大語族(北米西北部、ニューメキシコ州)
ナヴァホ語
アルゴンキアン大語族(五大湖を中心に、北米東部の大部分)
マクロ・スー大語族(アパラチア山脈及び北米中西部)
ペヌート大語族(カリフォルニア州、メキシコ東部、グアテマラ、ベリーズ。南米大陸のいくつかの言語を含む説がある)
マヤ語
アズテック・タノア大語族(ネバダ州、ユタ州、メキシコ西部)
ナワトル語
ホカ大語族(カリフォルニア半島、メキシコ湾に面した一部地域)
オト・マンゲ大語族(メキシコ中部)
マクロ・チブチャ大語族(ホンジュラス?パナマ地峡にかけて。南米大陸の一部の言語を含む)
アンデス・赤道大語族(アンデス山脈、アマゾン川流域など)
ケチュア語
アイマラ語
ゲ・パノ・カリブ大語族(ギアナ地方、ブラジル南部、パラグアイ、アルゼンチン東部など)
トゥピ語(グアラニー語)
なお、大小アンチル諸島(西インド諸島)では、アンデス・赤道語族のアラワク語及びタイノ語と、ゲ・パノ・カリブ語族の島嶼カリブ語が使われていて、一部はフロリダ半島に達していたが、これらはいずれも死語となっている。

ナワトル語はアステカ帝国の、マヤ語はマヤ文明の、ケチュア語はインカ帝国の公用語の流れをくむ言語であると考えられている。 ゲ・パノ・カリブ語族に属するブラジルのトゥピ語は現在でも多くの話者が存在しており、ブラジルの文化的ルーツの一つとして考えられている。 パラグアイなどの隣接するスペイン語地域では、グアラニー語と呼ばれており、これらは方言の違いであると考えられている。

TUPIGUARANI
グアラニー語

2009年01月22日

国際刑事裁判所の設置

第二次世界大戦における惨禍、特にホロコーストの惨劇をくり返さないとして、国際軍事裁判を行うに至った経緯を踏まえ、戦争抑止の意味からも、武力紛争時に行われた「ジェノサイドの罪」「人道に対する罪」「戦争犯罪」の実行者や共犯者、依頼者、教唆者、煽動者、上官などを、戦争犯罪としてを裁く常設の国際法廷設置が国際連合により提唱されたが、東西冷戦の時代には進展を見なかった。

しかし、冷戦終結後、民族紛争に伴う大量虐殺など「人道に対する罪」を裁く国際犯罪法廷が安全保障理事会決議によって臨時に設置されたこともあり(旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷、ルワンダ国際戦犯法廷)、常設の国際法廷設置議論が見直され、1998年7月にローマで国際刑事裁判所設立のための外交会議が開かれ、国際刑事裁判所規程が採択された。条約の発効に必要な60カ国が批准し、2002年7月から正式に発効、既に設置されている国際司法裁判所と共に2003年からオランダのハーグに設置されている。日本も2007年中に正式に加入する見通しであるが、アメリカ合衆国、中華人民共和国、ロシア連邦などは未加盟であり、その実効性は乏しいともいわれている。

戦争犯罪と主張する者がいる事例

中国国民党軍による便衣兵戦術、捕虜と民間人虐殺(南京事件・済南事件など)
平頂山事件
通州事件
陽高事件
南京大虐殺(1937年12月?38年2月、南京での日本陸軍による中国人大量虐殺事件)
日本軍731部隊による人体実験
九州大学生体解剖事件
日本軍による重慶爆撃
日本軍による燼滅作戦(三光作戦)
日本軍と現地ゲリラによる太平洋戦争中の南方地域での虐殺
シンガポール華僑虐殺事件
バターン死の行進
サンダカン死の行進
沖縄戦に於ける日米両軍の民間人虐殺・レイプ
従軍慰安婦、ライタイハン、アメラジアン
第二次世界大戦・太平洋戦争における都市に対する絨毯爆撃
アメリカ軍、イギリス軍によるドイツ本土への無差別爆撃(ドレスデン爆撃)など
アメリカ軍による日本本土空襲
ユーロ ドラゴン セカンド ナビラッコ バリヤ サーチ天延 セスカーナ ユッカ 京いも パレス レオタガ オマーン フライト リポジ ピンク チャコール サドルシ ライト じゃじゃん シキミ エッジ カチュ クロロ 学園天国 ソワレ ダイレーザ ハンサム シート ニアピン ロハス ラナン ソコン かすかわ 星のフラ シューズ フーズ トレーサー ターピース ルカラー 天羽 シャープ パオトウ くずまき マミー スウェ フォトカ そけい メトニミ フランス スリーエム

アメリカ軍の被撃墜捕虜達に対する地元住民の虐待(九州大学生体解剖事件)
アメリカの広島・長崎に対する原爆投下による民間人大量殺戮。
連合軍による日本兵捕虜に対する虐殺(リンドバーグ日記参照)
アメリカ軍による日本兵捕虜虐殺
カティンの森事件・ヴィーンヌィツャ大虐殺 - 第二次大戦時のソ連による大量虐殺事件
ソ連軍によるドイツ・満州での民間人虐殺、レイプ
ソ連によるシベリア抑留
韓国軍による朝鮮戦争中の非戦闘員二十万人余りの大虐殺(保導連盟事件)
老斤里事件(1950年7月)
米韓軍・南ベトナム軍と北ベトナム軍・南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)双方によるベトナム戦争中のベトナム人非戦闘員の虐殺、レイプ
アブグレイブ刑務所における捕虜虐待(イラク戦争)
米英軍のイラクに於ける民間人虐殺、レイプ

2009年01月15日

ジョン・ディクスン・カー

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ジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr, 1906年11月30日 - 1977年2月27日)は、アメリカ合衆国の推理作家。カーター・ディクスン(Carter dickson)、カー・ディクスン(Carr Dickson)、ロジャー・フェアベーン(Roger Fairbairn)という別名でも作品を発表している。名前の頭文字をとってJDCと呼ばれることもある。

1906年ペンシルバニア州のユニオンタウン(Union town)に生まれる。父は連邦議会下院議員や郵便局長を務めた弁護士のウッダ・ニコラス・カー。地元の高校を卒業してハヴァフォード大学(en:Haverford College)に入学した。この頃から学園誌に歴史小説や推理小説を発表するようになる。しかし、数学の単位が取れず2年で中退すると海を渡ってしばらくパリを遊学した。

帰国した後、1930年に発表したパリを舞台にした第一長編『夜歩く』が評判となり、以後は作家の道を歩むようになる。1932年にはイギリス人のクラリス・クリーヴスと結婚してイギリスに渡り、第二次世界大戦後にかけてイギリスで暮らした。江戸川乱歩が激賞した『帽子収集狂事件』や『三つの棺』といった代表作が執筆されたのもこの頃のことである。また経済的な理由からあらたに別のペンネーム(カー・ディクスン、後にカーター・ディクスン)でも精力的に作品を発表していった。

1936年にカーはアメリカ人として初めてイギリスのの推理作家団体であるディテクションクラブに招聘される。推薦者はカーの筆力をいち早く認め、書評で絶賛したドロシー・L・セイヤーズとアントニー・バークリーでここで同時代の多くの作家たちと親交を深めることになる。

カーはアメリカに一時帰国したのち、戦争勃発と共にイギリスへ帰り、BBCのラジオドラマやプロパガンダ放送などを手がけた。このうちラジオドラマは後年の短編集にその脚本が収められている。

第二次世界大戦中は家を爆撃されて失い、戦後も物不足できびしい生活が続いたため、1947年にアメリカのママロネックに移住した。アメリカではエラリー・クイーンやクレイトン・ロースンらと親しくなり、ロースンとは同テーマで競作をし、『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』では書評を担当した。シャーロック・ホームズシリーズの熱烈なファンであったカーは作者アーサー・コナン・ドイルの次男のエイドリアン・コナン・ドイルによる依頼でドイルの評伝を執筆し、エイドリアンとホームズのパスティーシュを合作した。

その後タンジールに住んだり、イギリスに戻ったりしたが、結局アメリカに帰り、1977年にガンで亡くなった。カーに関する評伝や研究書は数多い。

登場する探偵
1930年の処女長編『夜歩く』から数作はアンリ・バンコランというフランス人探偵が活躍したが、悪魔的な性格から読者の共感を得られず、その後に創造した1933年の『魔女の隠れ家』でデビューしたギデオン・フェル博士と、1934年の『プレーグコートの殺人』でデビューしたヘンリー・メリヴェール卿(通称H・M卿)の方が有名である。その他短編ではロンドン警視庁D3課長マーチ大佐が登場する。なお、メリヴェール卿ものとマーチ大佐もののほとんどはカーター・ディクスンのペンネームで発表された。フェル博士はG・K・チェスタトンを、H・M卿はウィンストン・チャーチルをモデルにしているといわれ、本のカバーもその二人を模して描かれている。

作風
密室殺人や人間消失をはじめとする不可能犯罪をテーマにした作品が多く「不可能犯罪の作家」の異名を持つ。1935年の『三つの棺』の密室講義は、密室トリックを分類したものとして単独でも名高い。初期作品には敬愛したG・K・チェスタトンとエドガー・アラン・ポーの影響を受けた怪奇色が強く、複雑なトリックを使用した作品が多いが、第二大戦中ごろは怪奇色の薄い、より単純なトリックを使った作品が多くなってくる。1950年の『ニューゲイトの花嫁』以降は、上記の探偵が登場しない歴史ミステリも増えた。こちらは謎解きという点での評価はあまり高くないが、綿密な資料読み込みにより、当時の風俗などの描写が生き生きと描かれている点で評価が高い。

また『連続殺人事件』や『盲目の理髪師』それにH・Mの登場する作品などはドタバタ喜劇(ファースものと呼ばれる)を主軸にした笑い溢れるものに仕上がっている。そのユーモアゆえに新進作家時代にはユーモア作家P・G・ウッドハウスの変名ではないかと書かれたこともある。上記のトリックメーカーとしての顔と併せて、常に読者に刺激を与えるというのが作風の基本姿勢である。

アメリカの作家であるがイギリスに長く在住し作品の舞台もほとんどがイギリスのため、名鑑などにはしばしば「米?英作家」と記載される。

ウィリアム・ブリテンの作品に『ジョン・ディクスン・カーを読んだ男』という、カーの作品をパロディーにした短編ミステリーがある。

主な作品リスト
とくに注記がない限り本名名義の作品・原題は基本的に米題で『』内は最新の邦題

長編

アンリ・バンコランもの
1930年 It Walks by Night『夜歩く』
1931年 The Lost Gallows 『絞首台の謎』
1931年 Castle Skull 『髑髏城』
1932年 The Corpse in the Waxworks 『蝋人形館の殺人』
1937年 The Four False Weapons 『四つの凶器』

ギデオン・フェル博士もの
1933年 Hag's Nook 『魔女の隠れ家』
1933年 The Mad Hatter Mystery 『帽子収集狂事件』
1934年 The eight of Swords 『剣の八』
1934年 The Blind Barber 『盲目の理髪師』
1935年 Death-Watch 『死時計』
1935年 The Three Coffin 『三つの棺』
1936年 The Arabian Nights Murder 『アラビアンナイトの殺人』
1938年 To wake the Dead 『死者はよみがえる』  
1938年 The Crooked Hinge 『曲がった蝶番』
1939年 The Problem of the Green Capsule 『緑のカプセルの謎』
1939年 The Problem of the wire Cage 『テニスコートの謎』
1940年 The Man Who Could Not Shudder 『震えない男』
1940年 The Case of the Constant suicides 『連続殺人事件』
1942年 Death Turns the Table 『猫と鼠の殺人』
1944年 Till Death Do Us Part 『死が二人をわかつまで』
1946年 He Who Whispers 『囁く影』
1947年 The Sleeping Sphinx 『眠れるスフィンクス』
1949年 Below Suspicion 『疑惑の影』
1958年 The Dead Man's Knock 『死者のノック』
1960年 In Spite of Thunder 『雷鳴の中でも』
1965年 The House at Satan's Elbow 『悪魔のひじの家』
1966年 Panic in Box C 『仮面劇場の殺人』
1967年 Dark of the Moon 『月明かりの闇』

ヘンリー・メリヴェール卿もの(カーター・ディクスン名義)
1934年 The Plague Court Murders 『プレーグ・コートの殺人』
1934年 The White Priory Murders 『白い僧院の殺人』
1935年 The Red Widow Murders 『赤後家の殺人』
1935年 The Unicorn Murders 『一角獣殺人事件』
1937年 The Punch and Judy Murders 『パンチとジュディ』
1937年 The Peacock Feather Murders 『孔雀の羽根』
1938年 The Judas Windows 『ユダの窓』
1938年 Death in Five Boxes 『五つの箱の死』
1939年 The Reader is Warned 『読者よ欺かるるなかれ』
1940年 And So to Murder 『かくして殺人へ』
1940年 Nine-and Death Makes Ten 『九人と死で十人だ』
1941年 Seeing is Believing 『殺人者と恐喝者』
1942年 The Gilder Man 『仮面荘の怪事件』
1943年 She Died a Lady 『貴婦人として死す』
1944年 He Would'nt Kill Patience 『爬虫類館の殺人』
1945年 The Curse Of The Bronze Lamp 『青銅ランプの呪』
1946年 My Late Wives 『青ひげの花嫁』
1948年 The Skelton in the Clock 『時計の中の骸骨』
1949年 The Graveyard to Let 『墓場貸します』
1950年 Night at the Mocking Widow 『魔女が笑う夜』
1952年 Behind the Crimson Blind 『赤い鎧戸のかげで』
1953年 The Cavelier's Cup 『騎士の盃』

歴史ミステリ
1934年 Devil Kinsmere (ロジャー・フェアベーン名義)
1936年 The Murder of Sir Edmund Godfrey 『エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件』
1950年 The Bride of Newgate 『ニューゲートの花嫁』
1951年 The Devil in Velvet 『ビロードの悪魔』
1955年 Captain Cut-Throat 『喉切り隊長』
1956年 Fear Is the Same 『恐怖は同じ』 (カーター・ディクスン名義)
1957年 Fire, Burn! 『火よ燃えろ!』
1959年 Scandal at High Chimnys 『ハイチムニー荘の醜聞』
1961年 The Witch of the Low-Tide 『引き潮の魔女』
1962年 The Demoniacs 『ロンドン橋が落ちる』
1964年 Most Secret 『深夜の密使』
1968年 Papa Là-Bas 『ヴードゥーの悪魔』
1969年 The Ghosts' High Noon 『亡霊たちの真昼』
1971年 Deadly Hall 『死の館の謎』
1972年 The Hungry Goblin 『血に飢えた悪鬼』

ン・シリーズ
1932年 Poison in Jest 『毒のたわむれ』
1934年 The Bow String Murders 『弓弦城殺人事件』 (カー・ディクスン、のちにカーター・ディクスン名義)
1937年 The Burning Court 『火刑法廷』
1937年 The Third Bullet 『第三の銃弾』 (カーター・ディクスン名義)
1942年 The Emperor's Snuff-Box 『皇帝のかぎ煙草入れ』
1952年 The 9 Wrong Answers 『九つの答』
1956年 Patrick Butler for the Defence 『バトラー弁護に立つ』

合作長編
1939年 Fatale Descent 『エレヴェーター殺人事件』(ジョン・ロードとカーター・ディクスン名義で合作)

リレー長編
1953年 Crime on the Coast 『殺意の海辺』

短編集
1940年 The Department of Queer Complaints 『不可能犯罪捜査課』
1947年 Dr.Fell,Detective and Other Stories
1954年 The Third Bullet and other Stories
1963年 The Men Who Explained Miracles

合作短編集
1954年 The Exploits of Sherlock Holmes 『シャーロック・ホームズの功績』 (エイドリアン・ドイルと合作)

2009年01月08日

フィクションモチーフとしての吸血鬼

18世紀以降、多くの東欧の吸血鬼伝承及び事件が、西欧に伝えられ始める。これらの伝承や事件は既に低価格化していた出版物によって、一般の間でも流行した。吸血鬼の頻繁な活動が報告された17世紀から18世紀の間は未だ医学が十分に発達しておらず、疫病や迷信のはびこる時代でもあった。そのため不可解な死、カタレプシーや仮死状態からの甦生などが伝承化された。これらの伝承や事件の中には事実として報じられたものもあるが、現代の怪談や幽霊話と同様、信用するに足らないものであった。

文学的モチーフとしての吸血鬼は、バイロンの主治医ポリドリの作でバイロン作と伝えられた"Vinpire"を嚆矢とする。(この作品についてのエピソードはメアリー・シェリーの項を参照)。19世紀末から20世紀初頭にはブラム・ストーカーのヴラド・ツェペシュをモチーフとした「ドラキュラ」と、それを原作とするユニヴァーサル映画などの映像化によってそのイメージを確立することとなる。他にカーミラ、ノスフェラトゥなどが固有名として有名である。血液で湯浴みをしたバートリ・エルジェーベト(エリザベート・バートリー)やジル・ド・レイも吸血鬼のモチーフに使われる実在した人物である。

従来ホラーやエロ・グロの文脈で扱われてきた吸血鬼に対して、悲劇のイメージが加えられたのは、萩尾望都「ポーの一族」やアン・ライス「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」以降のことであり、ホラーからコメディまでさまざまな要素を加えながら、現在も吸血鬼文学の系譜は拡大を続けている。また、吸血鬼の属性がフィクションとしてのゾンビ、キョンシー像成立に多大な影響を与えた。

ペーター・キュルテン(デュッセルドルフ の吸血鬼)
フリッツ・ハールマン(ハノーヴァーの吸血鬼)
ジョン・ヘイ(ロンドンの吸血鬼)

吸血鬼の特徴は狂犬病の症状と酷似しており、狂犬病の誤解であるという説もある。

吸血鬼は流れる水の上を渡れない→恐水症状(水などの液体の嚥下によって嚥下筋が痙攣し、強い痛みを感じるため、水を極端に恐れるようになる症状
吸血鬼は人を襲って血を吸い、噛まれた者は吸血鬼になる→興奮性、精神錯乱などの神経症を発症し、唾液を介して伝染する。

ライバ デッサン シーソーゲ ニーメイ ピーツ ハンチョウ リチャー ムース ディー ガイドモフ サプライズ トドマ シャベル バスレーン ローラー きざらし ヤコブ 風雷坊 コムサ プラトン シッダー ワンマ ガスマス ユーコ タウン憂山 フィナス フラワー 月のうさぎ ボリー フィア プロジェク シャム プレー ロブノー フレア シャフト モニカ シエラ キチン リング ビーエス ローシルク リーク スペード イマン バスガド サーチ予言 フラスコ スカルプ ジョイント